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絹産業遺産群のひとつ「荒船風穴」は蚕種貯蔵施設 [絹産業遺産群]

「荒船風穴」は明治38(1905)年から大正3(1914)年にかけて
造られた3基の蚕種貯蔵施設の跡で、
繭の生産を飛躍的に伸ばした場所です。

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            【画像 下仁田町HPより】

標高900メートル近い位置にあり、
夏でも2℃前後の励起が噴き出す地形、
地質を生かした日本最大規模の蚕種貯蔵所でした。

一番大きな第1号は、縦8メートル、横4メートル、
深さ4メートルの大きさを誇っています。

蚕種は、冬から春への温度変化を経て孵化するのですが、
蚕種が産み付けられた蚕種紙を1年中冷たい風が吹き出すこの施設で
低温貯蔵することにより、
孵化の時期を遅らせることができるようになって、
このことによりそれまで1回だった養蚕が、
夏や秋にも可能に。

3基の貯蔵施設跡からは、今でも冷風が吹き出し続けているんですね。

現在は、石積みの部分だけが残っていますが、
かつては土蔵式の建物が石積みを覆うように、
地下2階、地上1階の3層構造で建てれていました。

この他増構造により、夏場でも急激な温度変化を与えずに
蚕種紙を出し入れすることが出来ました。

ところで、この施設建設のきっかけは、学生のひらめきだったようです。

経営者である庭屋静太郎の息子、千尋が高山社蚕業学校で学んでいるとき、
自宅から7キロほど離れたところに冷気が吹き出す場所があることを知り、
蚕種の貯蔵に使えるのはないかと考え、
気象や土木などの専門家の力も借りて調査を進め、
次々に風穴を建設していったそう。

年間に複数回の養蚕を可能にする貯蔵施設の需要は高くて、
全国各地から蚕種貯蔵の委託が殺到し、
日本の繭の増産に貢献。

取り引き先は、日本各地はもちろん、
朝鮮半島にも及んで、蚕種紙貯蔵枚数は110万枚にも達したとも。

一方で、富岡製糸場が進めた繭品種の改良や統一運動にも貢献したようです。

風穴の運営方法としては、現場に番舎(管理棟)が建てられて、
庭屋静太郎の自宅には春秋館という事務所が置かれました。

この間には当時先端だった施設電話が引かれたそうです。

蚕種の輸送は、まず養蚕農家から下仁田までは鉄道で持ち込まれ、
そこから春秋館まで馬車は自動車で運んで、
さらに春秋館から風穴まで人や馬で運んだとか。

荒船風穴は、電気冷蔵技術が普及した昭和(1935)年頃には
その役目を終えたようですが、
日本が成し遂げた良質な生糸の大量生産に
大きく貢献したことは間違いないようですね。

◆荒船風穴の見学時間
 午前9時30分から午後4時まで
 ただし、12月1日から翌3月31日までの間は冬季閉鎖のため、
 見学はできません。

 ※午後3時以降に駐車場から徒歩を開始する場合は
  車まで戻る時間が夕刻を迫り危険が生じる可能性があります。

◆荒船風穴の解説
 解説員が午前9時30分から午後4時の間、
 駐在し解説を行っています。


*参考文献 「富岡製糸場と絹産業遺産群」(今井幹夫 著)



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絹産業遺産群のひとつ「高山社跡」は養蚕教育機関設立場所 [絹産業遺産群]

「高山社跡」は、高山長五郎が明治16(1883)年に、
近代養蚕方法「清温育」を開発して、
その普及のための養蚕教育機関である「(養蚕改良)高山社」を
設立した場所です。

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        【画像 藤岡市HPより】

現在、高山社跡に残る住居兼蚕室は、
高山長五郎の娘婿が明治24(1891)年に建てたもので、
「静温育」に最適な構造として教育のための実習が行われたようです。

長屋門や桑貯蔵庫跡なども残されていて、
母屋や天窓が3つ並ぶ豪壮な建物です。

高山長五郎が開発した「静温育」は、
当時主流だった換気を重視した「清涼育」と
蚕室を温めて湿度を下げて飼育する「温暖育」
双方の長所を取り入れたもの。

養蚕の温度調整や換気を行両立させ、
蚕室の温度が高い日には、外気を入れて涼しくして、
寒い季節には火を焚いて温度を上げる仕組みに。

この技術は、全国標準の養蚕方法となっていったそうです。

高山社の生徒は、日本全国だけでなく、
中国や朝鮮半島、台湾からもやってきたり、
逆にここから、海外現地指導のための養蚕教師も派遣されたとか。

「清温育」が全国に普及したため、
高山社は「全国の養蚕の総本山」と呼ばれたようです。

冨岡製糸場とも交流があって、新品種の飼育や飼育法の指導、
品評会などを通じて協力し合ったようです。

見学料:無料
開館時間:午前9時~午後4時
休館日:12月28日~1月4日


*参考文献 「富岡製糸場と絹産業遺産群」(今井幹夫 著)

高山長五郎関連記事



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絹産業遺産群のひとつ「田島弥平旧宅」は養蚕農家の住居兼蚕室 [絹産業遺産群]

「田島弥平旧宅」は、江戸末期の文久3年(1863)に建てられた
養蚕農家の住居兼蚕室です。

良質な生糸の大量生産に大きく貢献した
養蚕技術革新を象徴する重要な建造物です。

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          【画像 伊勢崎市HPより】

田島弥平旧宅のある島村地区は、利根川沿いにあって、
利根川は商いの盛んな江戸につながっているので、
この辺りでは江戸時代から地の利を生かして
蚕種製造が盛んになっていったそう。

幕末の開国後は、地域で協力してヨーロッパに向けた
蚕種輸出に積極的に取り組むとともに、
明治12(1879)年から3年間は、
蚕種をイタリアに持っていき、
現地で直接販売する事業も行ったようです。

この家の主、田島弥平もイタリアに行ったメンバーの一人。

田島弥平は、年によって蚕種の収量に大きな差があるので、
蚕の飼育に工夫が必要だと感じました。

各地の養蚕方法を研究した結果、
蚕の飼育には自然の通風が必要であるという考えに達し、
それをまとめたのが「清涼育(せいりょういく)」です。

通風を重視して、
自然に近い状態で飼育するのが大きな特徴で、
安定した繭の生産に成功。

この建物は、清涼育を目的とした
近代養蚕農家建築の原点ともいえるもの。

棟上に換気設備(ヤグラ)を備えた~話屋根総2階建、
開口約24.3メートル、奥行き約9.1メートルの大きな規模で、
1階が住居、2階が蚕室だったようです。

弥平は「清涼育」の普及のため、
明治5(1872)年に「養蚕親論」を著し、
田島家のようなヤグラを付けた養蚕農家建が、
その後の近代養蚕農家の標準となったようです。

弥平は、イタリアでメンバーが手に入れた顕微鏡を用いて、
蚕の病衣の検査・研究も行い、
2階北隅には顕微鏡室が増築されています。

明治初期の増産興業の中、製糸業先進地の視察を行う場合、
機械製糸は冨岡製糸場に行って、
養蚕技術は田島弥平に学ぶのがモデルコースとされていたようです。

冨岡製糸場から外国種などの試験飼育の要請を受け、
繭品種の改良や統一運動にも協力したそうです。

◆見学について
      ・田島弥平旧宅は個人の住宅で、現在も居住していますので、配慮してください。
      ・見学は庭までで、見学時間は午前9時から午後4時までです。
      ・田島弥平旧宅や利根川の周辺では、
       マムシやハチの巣が発見されているようなのでご注意を。

*「田島弥平旧宅」の見学については、伊勢崎市のサイトに詳しくあります。


*参考文献 「富岡製糸場と絹産業遺産群」(今井幹夫 著)

「田島弥平旧宅」関連記事



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富岡製糸場と3つの絹産業遺産群との関係性 [絹産業遺産群]

富岡製糸場と3つの絹産業遺産群は、蚕糸業において
機能的に結びついていて、どれが欠けても近代的製糸産業は
成立し得なかったんですね。

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       【画像提供 富岡市・富岡製糸場】

田島弥平宅(伊勢崎市境島村)は養蚕農家、
高山社(藤岡市高山)は養蚕学校で、
それぞれに良質な生糸の大量生産を目指して
独自の養蚕技術の開発と日本全国、
そして世界への普及に力を尽くしました。

富岡製糸場では、彼らに輸入した優良蚕種を提供したり、
品評会を行うなどさまざまな面で研究を奨励したようです。

そして、養蚕をリードする農家や学校で開発された
優良で大量な養蚕(蚕の卵)は、
荒船風穴(下新田南野牧)で保存されました。

これによって、以前は1年に1度の養蚕が、
大量の蚕種を保存することで季節をずらして年に数回、
繭を取ることが可能になったんですね。

貯蔵を求めてきたのは全国の業者で、
そこから産出された多くの繭が
富岡製糸場に持ち込まれたそう。

このように、蚕糸業の全般を通じてシステムとして、
機能的に結びついていたので、
この4つの遺産群が世界遺産になったんですね。

ちなみに、3施設とも国の指定史跡にもなっています。

◆ 「田島弥平旧宅」に関する記事はこちら

◆ 「高山社跡」に関する記事はこちら

◆ 「荒船風穴」に関する記事はこちら



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